有名人の葬儀

有名俳優やミュージシャン、スポーツ選手などの葬儀は、やはり大きな注目を集めます。多くの著名人も通夜や告別式に参列し、彼らの服装や振る舞い、そして故人に向けた弔辞の内容は、すぐに報道されます。

有名人の葬儀には、身内だけで行われる「家族葬」から「お別れ会」のようなインフォーマルなものまで、葬儀の内容も規模もさまざまです。

最近も有名人の訃報が続いています。「星野仙一」「西城秀樹」「志村けん」といった人気者が天国へと旅立ちました。

有名人の葬儀は、その話題性で注目されることがほとんどですが、参列する人々の服装や振る舞いから、自らが葬儀に参列する際はどのように振る舞えばいいのかを学べる機会でもあります。今回は何人かの有名人の葬儀に注目してみたいと思います。

黒澤明(映画監督)の葬儀

葬儀

「世界のクロサワ」。「羅生門」「七人の侍」などで世界にも名をとどろかせた日本を代表する映画監督は、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスら、後に世界を代表する映画監督らに大きな影響を与えました。

特に「羅生門」は、世界的に評価される作品となりました。ヴェネツィア国際映画祭では最高賞となる金獅子賞を獲得。「世界のクロサワ」はこの時に誕生したのです。その後の「生きる」や「七人の侍」でも世界的に評価されました。

その後、70代も後半を迎えた1980年、クロサワ明監督は「影武者」でカンヌ国際映画祭の最高賞「パルム・ドール」を獲得します。この「影武者」の外国版は、プロデューサーにジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラというビッグネームを迎えて製作されました。

黒澤明監督は、過去に「葬儀」に関して、こんなことを言っています。

あんた、変な顔をするが、本来、葬式はめでたいもんだよ。よく生きて、よく働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのはめでたい
黒澤明監督は、そのキャリア晩期に制作した「夢」の中に葬儀のシーンがありますが、監督の死生観、そして葬儀に関する思いが表れているような気がします。

黒澤明監督は、1998年9月6日に脳卒中のためお亡くなりになりました。

葬儀は9月7日に身内だけでお通夜が行われ、その後の8日に密葬が行われました。

ファンが弔問できるよう、「お別れの会」も開かれました。横浜市の黒澤フィルムスタジオで開かれた「お別れの会」には、約35000人のファンが訪れたそうです。

長男の黒澤久雄さんは、

残念なことに人生には映画のようにハッピーエンドがなくて最期にどうしても別れが来てしまいますが、黒澤明が残しました多くの作品はもっと長く生き続けると思いますので僕の心の中ではハッピーエンドだと思っております。皆さんも明るい気持ちで送り出してやっていただきたいと思っております。本日はどうもありがとうございました。
と喪主として挨拶しました。

何か黒澤明監督の葬儀に対する想いと重なりませんか?

「世界のクロサワ」らしく、世界の多くの映画人から追悼の言葉が寄せられました。スターウォーズのジョージ・ルーカスからの弔電は「お別れの会」の中で紹介されました。さらに「タクシードライバー」のマーティン・スコセッシ監督ら、海外から多数の弔電が届いたそうです。

亡くなった当時、ちょうどヴェネツィア国際映画祭が開かれており、急遽、黒澤明監督についての行事が特別に開催されました。「世界のクロサワ」の原点ともなったイタリアでは、死のニュースは大きく伝えられたそうです。


参考
追悼:黒澤明
http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AK/ak_memorial_news01.htm

東京・神奈川・千葉・埼玉・大阪・兵庫で葬儀・葬式

吉田茂(政治家)の葬儀

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吉田茂は日本の戦後を作ったとも言える政治家です。外交官として、主に中国大陸で活躍した後、終戦の年の9月、外務大臣に就任します。翌年には鳩山一郎(日本自由党総裁)の公職追放で、その後任となり、戦後の経済復興に尽力しました。

吉田茂は、麻生太郎現外務大臣の祖父として知られていますが、麻生氏のかんしゃく持ちであるところやユーモアに優れているところは、吉田茂に通じるところがあるのではないでしょうか。

吉田茂と言えば、ダグラス・マッカーサー(GHQ最高司令官)と関係が深かったことでも知られています。吉田茂は1964年の東京オリンピックにマッカーサーを招待したいと考えていたようですが、残念ながらその夢は叶わず、オリンピックを前にマッカーサーは亡くなりました。その後、吉田はマッカーサーの国葬に参列しています。

それから3年後の1967年10月20日、吉田は神奈川県大磯の自宅で亡くなります。家族も居合わせることができなかったほど突然の死でした。

カトリック信者である吉田の葬儀は、東京カテドラル(カトリック関口教会)で行われました。そして10月31日には、日本武道館において、戦後では唯一の国葬が吉田のために執り行われました。官庁や公立学校などは半休となり、約35000人が集まりました。この国葬は、日本で現在主流となっている生花祭壇が使われた初めての葬儀だと言われています。カトリック信者の吉田茂ですが、国葬であるため、こちらは無宗教で行われました。

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石原裕次郎(俳優)の葬儀

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石原裕次郎は昭和の大俳優。政治家であり、作家でもある石原慎太郎氏の弟です。海が似合う、ヨットが似合う、そして何よりもブランデーグラスとバスローブが似合う「タフガイ」。兄の石原慎太郎氏原作の「狂った果実」で大ブレークしました。歌手としても活躍し、多くのヒット曲があるにもかかわらず、紅白歌合戦への出場は断り続けていたそうです。

石原裕次郎のイメージは、人により、年代によりさまざまだと思います。「太陽に吠えろ」や「西部警察」のイメージが強いのは、現在の40代から50代でしょうか。石原軍団の全盛期だった気がします。

石原裕次郎は、その生活スタイルでも人々を魅了しました。ヨット、別荘、高級車、食通、たばこ、酒… しかし、その生活スタイルにより、石原裕次郎は大病を患うことになります。

1981年には「解離性大動脈瘤」。奇跡的に生還した3年後には肝臓がんが見つかります。今ではがんの告知も当たり前となっていますが、本人には最期まで知らされなかったそうです。1987年4月7月17日、肝細胞がんのため、石原裕次郎は、52歳の若さで亡くなりました。

石原裕次郎の葬儀は、近年、盛んになってきている「音楽葬」の先駆けと言われています。7月19日に自宅で密葬が行われ、本葬は翌月の8月に行われました。一般の献花が行われた会場では「夜霧よ今夜もありがとう」などのヒット曲が流れ、特大の全身像と遺影、ガルウイングが特徴的な愛車ベンツが飾られました。

しかし、クライマックスは友人、そしてライバルでもあった俳優・勝新太郎氏の弔辞だったのかもしれません。長いのですが、その一部をここに引用します。

なんかしゃべること見つけなくちゃいけない、見つけなくちゃいけないと思って、どうしても、その言葉が出てこない、そうしたら、兄弟― 
なんだよ、おまえ好きに言えよ、好きなこと言やあいいんだよ、来て。
そういう声が聞こえたんで……
ここへ来たら、ほんとに、生きてるときも思いやりがあったけども、死んで肉体がなくなっても、この魂が……
この写真の顔が、たいへん楽にさしてくれて……。
悲しい葬式じゃなくて、なにか楽しい、と言っちゃいけないんだけども、 ああ…なにか非常に、最高な葬式にめぐりあったような気がする。

ずいぶん前だったけど一遍、酒飲んで喧嘩したことがあった。
「表へ出ろ!」っていうから、「ああ、いいよ、上等だ!」って……。
たしか渋谷の…… 「屯喜朋亭」かなんかだったと思うんだけど、出て、便所んとこ行って……
そしたら、「おい、芝居にしようよ」って言ったときの、あの、やさしい目。そのときのもう、とても普通の俳優じゃできない、すばらしい演技力というか、でき心というか。

もちろん、すばらしいっていうことはわかってたんだけども、役者としては俺のほうが勝ってんじゃないかななんて思いながら、このあいだ『陽のあたる坂道』とか、いろんなのを見てるうちに、とても追っつかないなと、これは。
これは、俺たちみたいな、変な演技するとか、そんなもう……そういうもんじゃ、とても、これはかなわないと、
石原裕次郎っていうのは、もう、すごいんだと、つくづく思った。

生きていながら死んでるやつが多い世の中で、死んで、また生き返っちゃったという、このすごさ。
これは、とってもすごい……頭が下がる。そんなすごい人から、兄弟っていわれた、俺も幸せ。
ほんとに、どうもありがとう。

勝新太郎は葬儀会場に来るまで、兄弟(親友)の死に関して何を言っていいのか、迷いがあったようです。この弔辞の内容をどう受け取るかは人によるでしょう。ただ、このなんというか、勝新太郎らしい言葉は、弔辞の教科書にはならないかもしれませんが、気持ちを伝えるという点では参考になるかもしれません。


参考
最高の弔辞はこれ(考える葬儀屋さんのブログ)

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美空ひばり(歌手)の葬儀

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「昭和の歌姫」、そして「歌謡界の女王」。美空ひばりさんは12歳で歌手デビューを果たした天才少女。「御嬢」と呼ばれ親しまれました。

デビューを果たしたひばりさんは音楽、そして映画の世界で大活躍しました。初期のヒット曲は「悲しき口笛」「リンゴ追分」など。

ひばりさんと山口組三代目組長の田岡一雄の関係についてはよく知られたところです。というのも、この頃、ヤクザが興行を仕切ることはおかしなことではありませんでした。ひばりさんにとって田岡は恩人と言える存在でした。

ひばりさんは私生活では苦しんだ人だったかもしれません。俳優の小林旭と結婚していた時期もありますが、幸せな結婚生活とは言えなかったようです。また、ヤクザとの親密な関係が芸能生活に影響を与えたことも否めません。そしてひばりさんのキャリア晩期は病魔との戦いになります。

1985年、ひばりさんは肝硬変で緊急入院します。その後は入退院を繰り返しつつ芸能活動にも意欲を見せます。ちょうど80年代後半は、ひばりさんも親交のあった石原裕次郎や鶴田浩二らビッグスターが続けて亡くなっていましたが、病魔と闘いながらも彼女の復活への思いは変わりませんでした。

1988年4月、ひばりさんは東京ドームでの復活コンサートに臨みます。ただ、実際はコンサートに彼女自身が絶えられるのかという疑問は残されたままでした。彼女はコンサートを完遂しますが、終了後は救急車で運ばれていったというエピソードがあります。

それから約1年2ヶ月後の1989年6月、美空ひばりは52歳の若さで亡くなりました。

葬儀は、翌月7月22日に行われました。弔問に訪れたファンは約42000人だったといいます。葬儀では1988年秋に発表された最期のシングル「川の流れのように」が歌われたそうです。

最近は音楽葬が増えていますが、この「川の流れのように」は、音楽葬でも、とてもよく演奏される曲です。

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渥美清さん(俳優)の葬儀

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渥美清さんは、「男はつらいよ」の寅さんで知られていますね。今回、ご紹介した著名人の皆様方同様ですが、説明の必要はないと思います。

ただ、渥美さんの葬儀は、若干、事情が異なります。それというのも渥美さんは他人に自分の死に顔を見られることを嫌っていたのです。

渥美さんは小さい頃から病弱で、コメディアンとしてデビューしてからも、そして「男はつらいよ」シリーズの撮影中も病と闘い続けました。

平成7年(1995年)、渥美さんが亡くなる前の年、「男はつらいよ」の全シリーズを撮ったカメラマン・高羽哲夫さんが亡くなったとき渥美さんは、

いやだねえ。見られたくないね。
と死に顔をどんなに親しい人にも見せたくないと語っていたそうです。

渥美さんは平成8年、奇しくも高羽さんと同じがんで亡くなりますが、「男はつらいよ」の山田洋次監督ですら、訃報を知らされたのは死の2日後で、既に渥美さんは火葬された後だったといいます。家族だけの密葬でした。今でこそ密葬は多く行われていますが、この頃は世間の密葬への理解が少なく、誤解もあったようです。

渥美さんの「お別れの会」は、松竹大船撮影所で開かれました。この日、日本全国から集まったファンは約40000人だったといいます。その全ての人々のために献花用のカーネーションが用意されたそうです。

戒名・戒名授与

葬儀での立ち振る舞い、有名人の葬儀は参考になる

葬儀

昭和を代表する著名人数人の葬儀についてご紹介しました。著名人の葬儀では、もちろん一般の葬儀とは違う事情もありますので、一概に比較することはできません。使えるお金の額も桁違いでしょう。しかし、著名人の葬儀では、立ち振る舞い、弔辞の際の気持ちの持ち方など、我々の参考になる部分も多いでしょう。
黒澤明監督の葬儀に対する思い。

葬式はめでたいもんだよ
これに応えるような、長男で喪主の久雄さんが語った、

ハッピーエンドだと思っております
は、何か愛を感じる、心のやりとりのように思えます。